園祖「小野太三郎」
園祖 小野 太三郎
小野太三郎は、天宝11年(1840年)に金沢の中堀川町(現金沢市堀川町)で誕生した。幼年期はのびのびと自由奔放に育ったが、11歳の頃近江町にて、衆人が亀を崇めて銭を投げ与えている一方で、哀れみを乞う老人を追い払おうとしている有様を見て、大変悲しく情けなく思い、このことが慈善の道に進む理由の一つになった。
13歳で父の後を継いで加賀藩卒方小者組七合扶持となり、調理の腕をかわれて御膳部方を薦められたが、料理だけでなく大工職、壁工、彫刻に至るまで玄人はだしという器用な人であり、これが後の救養者への自活技能の付与につながる。
14歳の頃たまたま「院本忠臣蔵」の大序を読み、「嘉か 肴こう(うまい料理)ありといえども食せざればその味を知らず」ということわざに感銘を受け、儒学の書を精読して教養を身に付けるとともに、何事も実践が第一と考え生涯これを座右の銘とした。
16歳の頃白内障を患って一時失明したが、その後奇跡的に治癒したことを契機として、加賀藩の救民事業で「座頭座」という目の不自由な人の自活を支援する事業に寄付を始めた。
元治元年(1864年)25歳の時、太三郎が尊敬していた加賀藩お救い小屋裁許の福岡惣助が処刑される事件があり、加えて飢饉により多くの人々が生活に困窮している姿を見て、お金を施すとともに自宅を開放して貧しい人々の救済を始めた。
明治2年30歳の時、島崎センと結婚し二人で救済活動を続けた。太三郎は加賀藩から支給された金10円の退職金をすべて病人や障害のある人に分け与えたが、当時士族が売り払う古着や古物などの家財道具を買い集め、再生して売る商売が当たって大変資産を増やしていたという。
明治6年34歳の時、市中には加賀藩の撫育所や座頭座の廃止により、そこを出された家も身寄りもない目の不自由な人や老人が満ちあふれていた。太三郎は最も生活に困った目の不自由な人達のため、木ノ新保に家屋1棟を買い、「小野救養所」として24人を住まわせ食事や衣類を与えた。専用の施設を持って窮民を救養したこの年が陽風園創設の起源とされている。
明治18年46歳の時、慈善事業に私財の全てをつぎ込み、240人余の救養者と生活を共にして自活の援助をする偉業が認められ、福祉分野では日本初となる藍綬褒章を賜った。
明治32年に太三郎の片腕として救養所を切り盛りしていた妻のセンが亡くなり、加えて不況の影響により次第に運営が苦しくなっていく中、太三郎も健康を害し小野救養所の存続が危ぶまれたが、小坂シゲを後妻に迎えて健康を回復し、県、市、経済界及び宗教界の後押しを受けて、明治39年10月29日常磐町に「財団法人小野慈善院」が設立され、太三郎は明治45年73歳で死去するまで初代の院長を勤めた。
なお、小野太三郎は金沢が生んだ偉人の一人として、金沢ふるさと偉人館にその遺品が常設展示されている。
※年齢は数え年。 参考文献:和田文次郎著「小野君慈善録」、小坂興繁著「金沢が生んだ福祉の祖『小野太三郎伝』」